2014年6月5日木曜日

訃報に寄せて


尊崇する神父様のお一人、奥村一郎神父様がお亡くなりになりました。心からのご冥福を祈ります。
優秀な学生時代、徹底した無神論者で、徹底的に神を否定することから始まった訳ですが、ある日突然の天啓を受けてから、ひたすら信徒としての道を歩まれることになった奥村神父様。その徹底して神を信じない、という態度から一転して篤いキリスト教徒となった聖人の例は、いくらでもあります。その「徹底さ」が、肝心なのだ、と思いました。
でもこの「徹底さ」、しかも宗教に関してとなると、普通に幸せに生活をしている人々にとっては、縁のないことなのかもしれません。私自身に関して言えば、「普通に幸せに」生きたことが、母親が他界してから全く経験しなかったことでしたが、その分、宗教の方へ走ったかというと、これも全く違ったので、どちらにも当てはまらない部類です。母に死なれて、父と折り合いがつかず苦しい年月を送ってきたのは確かですが、だからといって、宗教には走らなかった。
亡き父は、浄土真宗、そしてキリスト教、神道、お地蔵様と、色々大切にする人でしたが、それらを私に強制することはしませんでした。ただ、仏様(先祖)を大切に、ということだけでした。
それが、結婚してからキリスト教徒となった訳ですが、自分が未だに信じ切れていないと自覚しています。


奥村神父様の本は、パリの家に数冊あります。
その中で、「断想 足元を深く掘れ」というのがあります。これは神父様が、日々、出会ったり思いを巡らしたりしたことを綴ったエッセイといえるものですが、その序章に、こんなことを書かれています。

神父様が、いつだったか、京都の万福寺を訪れた際に、お寺の太い柱に掛かっていた1枚の古びた色紙に気付いたそうです。 そこには、「一本の鍬(くわ)と、その先に、掘り返された少しの土、それだけが、色あせた墨で描かれていた。その絵に添えて、『一鍬足りないために水の出ない人がいる。それは誰か。』とあった。天雷の響きに、頭が割られる思いがした。」とあります。

この「足元を深く掘れ」というのは、英語の格言で、明治の文豪である高山樗牛(ちょぎゅう)が訳した翻訳の名句ですが、その先があります。「足元を深く掘れ。さらば泉を見出さん。」で完結します。

そして神父は続けて、「『足元を深く掘れ』、ただ掘るだけでは、だめ。『深く』そして、『今、立っているところを』と、いつも自分に言い聞かせては、ままならぬもどかしさのうちに過ぎ去っていく日々である。とどめえぬ、その生の流れの奥深くにも秘められているにちがいない命の泉を掘りあててみたいと思う。」と書かれています。


もう少し掘れば、泉にぶち当たるかもしれない、分かっているけれどもそれができない、ということも考えました。そもそも私なぞは少しどころか、深く深く掘らなければいけないのでしょうが、それが中々できずにいます。なぜでしょうか?

自分が苦しい時なんかは、ただ苦しむだけ、それに耐えて必死な状態なだけとなってしまいますが、それが抜けると、苦しみが消えたことにただただ感謝で、それ以上は考えたくもない。
実際、振り返っても、苦しみの経験だけが生き生きとしていて、つまりどれだけ苦しんだかだけが記憶に残っていて、そこから色々な教訓を得る訳ですけれども、それをどう深めるかが分からない。

「足元を深く掘れ」って、どういうことなんだろう?、一体どうすれば深く掘ることができるんだろう?と考えるこの頃です。

そして最後に付け加えますと、奥村神父様は、「友とは?」という命題にも、深く追及された方でもあります。「自分の本当の友とは誰だろう?」そんなことも考えます。。




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