2017年12月23日土曜日

クリスマス(ノエル)の前に  Juste avant le Noël

Notre-Dame de Paris パリのノートルダム大聖堂
昨日、シテ島にある警視庁(Préfecture de Police)に行って、10年の滞在許可証をもらってきました。この10年カードは2回目となります。
フランスの役所の人たちの対応の悪さというものが今回は全くなく、無事、円満に済みました。必要な書類を完璧に揃えて提出すれば、(そしてにこやかにしていれば)本来は問題はないのですが、この滞在許可証の取得の場では、感情の吐露が起こりやすく、行くたびに(そうそう私の場合は行く場所ではないですが)ドラマを見ることになります。書類が全部揃っていないのに列に並んで時間を無駄にする人、書類の不備を指摘されて泣き叫ぶ人、そもそも通達された日にちを間違えて来る人等々。日本の役所では滅多に起こりえないことが普通に起こります。人間の、あるいは人種の多様性ーそこから忍耐力や人としての権利を学びます。

フランスは移民を受け入れるようになってから久しい国ですが、実際に自分も外国人としてこの国に生きるようになってみると、その懐の深さに感心しますし、人は一人ひとり違うということを、心底身に染みて毎日を生きることは大変でもありますが、逆に楽でもあります。
Crèche de la Cathédrale  聖堂内に展示されていた馬小屋の一部
滞在許可証の取得後、同じシテ島内にあるノートルダム大聖堂へお礼参りをしました。
この日は朝から暗く、小雨の降りしきる天気ということもあり、訪れる人の数もまばらでしたが、観光地のメッカとして、テロ対策に迷彩服を着て銃を携えた軍人たちがしっかりと周囲を警戒していました。

毎年、聖堂内で飾られる馬小屋は、とても大きく、また写真にあるように精巧にできているため、その周囲はいつも人だかりとなっています。当時のベツレヘムの村の様子、人々の暮らしや仕事ぶりもよく分かり、見ていて飽きない作りになっています。
お祝いに、そばに置いてあった献金箱に3ユーロを入れて、ロウソクを一つ、灯してきました。

大聖堂の横を流れるセーヌです。

降り続く雨のせいか、セーヌ川の水かさも増しているようでした。
流れる水も、こんな風に濁り、冬のパリの陰鬱さに一役買っていました。こんな天気では、バトー・ムーシュに乗っている人も少なく。


なんとなく気分まで鬱々としてしまうので、話題を変えます。
先日の教会での忘年会で、簡単なちらし寿司を作りました。ちらしと言えば春ですが、一足早くの迎春も兼ねて作ってみました。

こちらはハンバーグ。
ハンバーグといえば日本では「洋食」の代表選手の一つですが、フランスではマイナーな食べ物です。そもそもひき肉の料理が一般的ではないので、スーパーでも、牛のひき肉しか置いてません。なので写真のハンバーグは牛100パーセントのひき肉で作ったのですが、合いびき肉と違ってジューシーさに欠けますね。因みに鶏のひき肉もないので、もし鍋に入れる鶏団子やつくねを作ろうと思ったら、骨付きの鶏肉を買って、それをさばいて肉を骨からはがして自分で肉を叩いて作るしかありません。なのでそこまでパリで作る人は、、、おそらくかなりの趣味人でしょう。


ナシオン広場に恒例の、生のサパン、もみの木を売るコーナーです。
クリスマスの直前まではもちろん、当日まで売り続けます。
 

今年のクリスマスも、皆様にとりまして佳きものとなりますように。
この世に救い主としてお生まれになったイエス・キリストに、思いを馳せつつ。。

Joyeuse Fête !!


2017年12月11日月曜日

映画「沈黙」について   Le film " Silence "


先日、パリの日本人カトリックセンターにおいて上映された、遠藤周作の「沈黙」という映画について、感想などを述べたいと思います。但し、私自身がキリスト教徒であること、そして長年にわたり(たかだか10年ちょっとだとしても)フランスという、今やカッコつきとなっているとはいえ、典礼暦で社会が動いているカトリック国の一つに住んでいることを、まず前提としてお伝えしておきます。そしてこの作品は、非常に重要な多くの問題提起を抱えていますので、ちょっとやそっとでは論じられない、一つか二つのテーマに絞らないことには収拾がつかないと思われますし、一つか二つにテーマを絞ること、それとて容易ではないし、すべての問題提起が底では一つに繋がっている訳ですから非常に奥深いものとならなくてはなりません。そんな事が自分にできるのか?いやできない、しかし自分の生きている土台としてのキリスト教に関わることで、何一つとっても自分で納得できないのは辛い、という思いで、ほんの一部でも感想を述べてみたいと思います。

一緒に観た友人の一人も言っていたのですが、原作に劣らず、遠藤周作が小説として表現したものが実によく映像化されていたと思います。私は小説を先に読んでいましたので、その表現のリアルさに、かなり読みきるのに苦労したのを覚えています。そのずっと後で映画を観たわけですが、文章では想像の域を超えなかったものが映像化されたことでまた違った衝撃を受けました。
しかしそれよりも私が自分自身で驚いたのが、自分が既に宣教師の側の人間だという発見でした。もちろん、17世紀の日本が舞台とはいえ、同じ日本人が演じているということで、しかも日本の名優ぞろい、立派に演じきっているところは誇らしくも思いました。しかしその中でも自分はどっち側の人間なのか?ということはとても重要で、堂々と、ある意味小気味良いとも言える代官側の人間ではない、という自覚は必要だと思いました。もちろん、キリスト教徒なのですから、迫害されたキリシタンたちと同じ立場なのですが、ともすると、むしろ残虐に迫害する側、つまり権力者側の気持ちも日本人として分かってしまうため、そこら辺の識別に苦労するのです。
しかし一歩引いて考えると、なぜ、自分は権力者でもないのに、当時生きていたならむしろヒエラルキーとしては従属する階級に属しているはずなのに、この隷属する百姓を一個の人間として扱わない側の代官の言動に、何か共感してしまうのは何故なのか? 映画の上では百姓の命は、本当にむしけら同然です。このことは、決して例外的な扱いではなかっただろう、ということは、他の史実を見ても明らかです。過去の大戦でも、数え切れないほどの命がむしけら同然に、しかも無駄死に追いやられたことで証明されています。
権力者は、国を守るため、という大義名分がありますが、実際には国民の命を非常に軽く見ているという事実は、これはもういかんともし難いものがあります。それなのにその国民の多くは権力者におもねる言動をとるし、それに賛同しない者に対しては圧力を加える。この構造は、あの戦争をあそこまで長引かせた一要因として外せないことですし、そんな人間性をもつ日本人は、過去と同様、今もって何一つ変わっていないと思います。

少し話題がそれました。
そんな、国民(当時その多くはお百姓さんでした)の命をいとも軽く扱っていた権力者たちにとって、キリスト教が脅威になるのは当然でした。今でいう「人権」というものを、当時では人間の尊厳という概念があったからです。そして絶対的な真理があった。もちろん今でもあります。映画の中で、ロドリゴ神父の「どこの国にあっても、真実は真実である。日本においてそれが真実ではないなら、それ自身、真実とは言えない。」というセリフがありますが、日本に住む多くの日本人にとって、この言葉はピンと来ないかもしれません。なぜなら日本人は、絶対的な真理などは存在しないし、そんなものは求めていないからです。求めなくても、少なくとも表面上は平和に生きていかれるからなのです。それは、昔からよく言われているように、日本が島国で単一性の高い民族だからなのです。だからその同一性から外れる者をのけ者にするのは当たり前であって、いじめ問題の根はそこにあります。言ってみれば「何が悪いの?」、つまりキリシタンを迫害して「何が悪いの?」ということです。

よく仏教でもキリスト教でも、突き詰めれば同じところに行き着く、という見方がありますが、もちろん私もそれには同意します。しかしならば何故迫害しなくてはならなかったのか?それはもはや宗教的な問題ではなく、政治と結びついていたというのは周知のことでしょう。日本という国を超えて、もっと大きな存在があるという、日本にはないイデオロギーを危険視したのです。そんな宗教を放っておいたら国の統一が図れなくなります。事実、キリスト教に改宗した者たちによって、当時、お寺や神社が破壊された、という歴史があります。
しかし転んだフェレイラがロドリゴ と再会した場面で言った、「日本人が信じている神と我々の信じている神は違う神なのだ。お前の前で殉教していった日本人は、お前のために死んだのだ。」というセリフがあります。この発言は、非常に大きな問題でして、軽く言い逃れることはできません。遠藤周作氏に限らず、現代においても日本人としてキリスト教をどう信じるのか?否、信じることができるのか?という根本的な問いがあります。氏と同様、この問いを一生のテーマとしている日本人の神父たちも少なからずいます。

日本人は、果たしてすべてを超越した神なる存在を、信じることができるのでしょうか?

非常に大きなテーマですので、多くの賛否両論を超えて、私なりの答えを簡略化して書きたいと思います。
私の場合は、キリスト教を信じる夫に出会った、というのが最も大きくて素直な答えだと思います。19才で最愛の母に死なれてから、父や兄二人がいたとはいえ、大きな苦しみの中でもがき続けていた私は、後年、夫を紹介されて出会ってから、心の平安を得ることができました。
ですから「超越した神なる存在を信じることができるのか?」その問いに対する私なりの答えは、「超越した神と出会い、信じている人々ー神父やシスターに限らず一般信徒でもーと、誠の出会いをしたならば信じられる。」ということでしょうか。

映画の中のお百姓さんたちのように、キリスト教との出会いによる貧しさや苦しみからの救いだけでなく、そうした超越した神を信じている人との出会い、ロドリゴ神父とガルペ神父との「真の出会い」によって、殉教として身を投じるまで至った、と思いました。

私は本当に苦しんでいる人々、真面目に、真摯に自分の苦しみに向き合っている人々、そして真の救いを求めている人々に共感します。そして真の救いというのは、日本的な相対主義では「絶対に」救われない、という救いであることを、強く主張したいと思います。


2017年12月4日月曜日

待降節  L'Avent

La Place d'Edgar Quinet et la rue d'Odessa エドガー・キネ広場とオデッサ通り

待降節が始まりました。
正確には先週の日曜の、11月26日に「王であるキリスト」を迎え、典礼暦がマタイからマルコとなり、昨日の日曜日で待降節第一主日となりました。
でも街はとっくにクリスマス(ノエル)の装いとなっています。

上の写真は、エドガーキネの広場にあるカフェの一つで、カトリックセンターが近いこともあり、時々利用しています。このカフェの売りの一つは、店先でクレープを販売していることで、目の前で生地から焼いてつくってくれるクレープは絶品です。この間は一人でしたが行列に並んで買いました。甘いのだけでなく、食事系のクレープ(crêpe salée)も豊富で、わたしは大好物の Jambon & Fromage (ハムとチーズ入りクレープ)を注文することが多いのですが、熱々になったハムととろけるチーズを、はふはふさせながら食べます。パリでは、Casse croûteといって、小腹が空くと、こうして買い食いすることが多いのです。おしゃれなパリジャン・パリジェンヌが、食べながら歩いているのを良く見ますし、メトロの中でも見られます。

On vend des huîtres de Normandie devant le café

寒さも本格的となってくると、フランス名産の生牡蠣が売られるようになります。
日本にいた頃は、生牡蠣を食べるなんてことは滅多にありませんでしたが、パリに住むようになってからはレストランででよりも家で買ったものを食べるようになりました。
生牡蠣は、専用のナイフで閉じた貝殻を開けて身をはがして食べるので、フランスでは一家に一つ以上はそのナイフを所有しています。この貝殻をこじ開けるというのがなかなかやっかいでコツがいります。下手をすると指を切ってしまいます。
日本映画の、伊丹十三作品の「たんぽぽ」に、男が貝殻を口につけて唇を切ってしまい、血が出てしまう場面があります。そこで海女が牡蠣の身を自分の手のひらに移して男に食べさせるのですが、とてもエロチックでしたね。昔から、貝は女性を象徴するものだったんですね。そのことを私は夫から初めて教わったのですが(本当です)、「ぶりっ子にも程がある」と呆れられました。
パリは海のない地域なので、生牡蠣を開けるときに広がる海というか潮の香りに懐かしさを覚えます。実家は東京の墨田区なので、隅田川に近く、東京湾からも遠くありませんでしたし、海の香りを嗅ぐと、子供の頃千葉の九十九里浜で潮干狩りをしたことを思い出します。
亡父は同じ牡蠣でも、牡蠣フライが大好物でしたっけ。

Le grand magasin de Galerie Lafayette


今年のギャラリー・ラファイエットのクリスマス用イリュミネーションはこんな感じです。数年前は、広場に面した側面が、まるで光り輝くビザンチン洋式のモスクのようでしたが、近年は今ひとつですね。恒例の子供用ショーウィンドーも、今年はなぜか「鳥」がテーマでしたが、パッとしませんでした。通行人の一人が、「チープだな」と言っていたのにもうなずけました。

昨日はカトリックセンターでクリスマスバザーを開催しました。朝のうちは氷点下という寒さで空は暗く、「今年は内輪で終わるかな」と話していたのですが、それにしては人が沢山来たので、盛況となりました。

昨日が無事終わってホッとひと息。今日は家でのんびり疲れを癒そうと思います。
人生、悲喜こもごもですが、どうにかこうにか暮らしていけていること、そして何より夫と仲が良いことに心からの感謝です。

今年も残すところ後わずか。
まだまだクリスマスにむけてイベントが目白押しですが、今年一年を振り返りつつ、悔いのないように過ごしたいものです。
皆様も忙しい師走とは思いますが、お身体大切に、そして思いっきり楽しみましょう!

Rue des Francs Bourgeois