2013年9月28日土曜日

秋分過ぎても尚 晴天なり


ここのところ、日中の晴天続きで、まだ夏は終わっていないような陽気です。
朝晩の冷え込みはあるにしても、午後になってから気温が上がる状態が続いていて、その頃の街の様子は、真夏と変わりません。もっとも、上がっても23、4度ぐらいなので快適です。
今朝は16度もあって、「蒸し暑い」と感じます。

上の写真ですが、撮ろうとした時に市バスが来てしまってこの通り。あまり良い写真じゃなくてすみません。でも、真夏のような暑い感じが出ているかな、と思って載せました。それと、手前左の女の子2人が、あまりに可愛いので、それに合わせて撮ったのでした。お互いに見つけたら歓声をあげて抱き合ってキス。可愛いな~!と思って思わずパチリ、でした。

このオペラ街は、通称日本人街と言われているように、ここを歩くと、必ず日本人の観光客にたくさん出会います。そんな日本の人たちを見ると、懐かしくて思わず声をかけてしまいます。(パリにも、たくさんの日本の友人がいますが、でも、観光に来てる日本の方は、全然違います。純日本人というのでしょうか、とにかく懐かしいのです。) パリのカルチエとして、わたしにとっては一番馴染みのある地区です。

 

2013年9月25日水曜日

栗かぼちゃ  Potimarron


これ、なんだか分かります?
そう、一見かぼちゃなのですが、日本のと違ってこんなに鮮やかなオレンジ色。ちょっと不思議でしょう? これは栗かぼちゃ(Potimarron とは、Potiron がかぼちゃ、Marron が栗で、造語です)と言って、秋の朝市に並ぶようになりました。
これをざっくり4つ割にして(なので1切れは大分大きいですが)、それを全部ル・クルーゼの鍋に入れて、水を人間でいうと膝ぐらいの高さまで入れ、最初強火、そして弱火で30分ほど煮ます。それで出来上がり。味を見たかったので水だけで煮ましたが、日本の煮物のように、しょうゆと砂糖で煮てもばっちり決まるな、と思いました。水煮の味は、日本のかぼちゃより淡白ですが、栗に似た味わいがあり、ほんのり甘くて美味しかったです。また朝市に行って買おうと思ってます。


右上にあるのがアポティマロン。こんな大きさで食卓に出すなんて、と思われるでしょうが、箸がすっと楽に入る柔らかさなので気になりません。ですが、全部食べられませんでした。
魚はイワシです。一見メザシに見えますが。。 例によって夫が腕によりをかけて日干しにしたものを焼きました。五分付き米を炊き、みそ汁はワカメと沢山のネギ。白味噌です。味噌を入れ過ぎて塩分過多、イワシの塩分も相まって、夜中に2人して水をがぶ飲みする羽目になりました。。(味は最高だったんですが) 
イワシは確か、500グラムで3ユーロぐらいだったと思います。安いでしょう?

ちょっとした秋の味覚、食事の紹介でした。

2013年9月23日月曜日

チュイルリー公園 秋の散歩


昨日の日曜日、友人たちと長い散歩をしました。
ごく早目の夕食をオペラ街ですませた後、チュイルリー公園から歩き始めました。
この公園も、すっかり秋の花々に植えかえられて、ピンク・青・黄色と華やかでした。ガーデニングには、カラースキームが欠かせませんが、こんなカラフルな色合いも、広い庭園だととても映えます。写真上、遠くに見えるのが、オルセー美術館の頭の部分です。
こうした、パリ市内にたくさんある公園を、自分の庭のようにして楽しむことが重要だと、最近になって気づきました。このチュイルリーや、リュクサンブールのような、名だたる公園じゃなくても、近所には必ず公園があるので、そこを自分の庭のように寛ぐこと。これが年間を通じてパリ暮らしを快適にする秘訣の1つですね。
それとこれからの夜長には、編み物や刺繍などの手仕事が俄然楽しくなります。

パリは、今週から、日中の気温が例外的に上がるとか。(20度をちょっと超えるそうです。)
楽しみです。

2013年9月20日金曜日

薔薇色の薔薇


また花束かと思わないでくださいね。11日の結婚記念日に買ったブーケが、かなり長持ちしていて、それに昨日買ったバラを付け加えました。たまに、道端で、日本でいうところのリヤカーを小さくしたような手押し車に、お花をぎっしり積んで売っている人がいます。昨日も、そんなおじさんがいて、見ると、まさに私好みの薔薇色のバラが売られていたので、思わず買ってしまいました。
7本で5ユーロ。ところがエピソードがありました。
私を見ておじさん曰く、「中国じゃ、8という数字は縁起が良いんだろ?Huite, ça porte boheur en Chine, hein ?」とニコニコ顔。まぁ私は日本人だけど、日本でだって、8はおめでたい数字。「そうですね、よく知ってますね~」と驚いてみせたら(でもそんなこと知ってるなんて、驚きですよね)、7本を8本にしてくれました。ラッキー!!
私もにこにこ顔で帰宅しました。


このパン屋は、9区の、Notre-Dame de Lorette(教会)の横手にあります。なので私たちにはあまり馴染みのある地区ではありませんが、たまに通りがかると買っています。味も、マクロビオティックを採用しているだけあって、素朴で滋味豊かな感じ。外観負けしていないところが気に入っています。
さて余談ですが、、
こういった、お店の人とのやり取りが、私の生活で大きな部分を占めている面があります。今では全く臆せずできるようになりましたが、でもたまに「あれ?」ということはあります。「こんなんで良いの?」と、気づいて首をかしげるのは、もう過ぎ去った後。こんな時に、大分後になってから、「あぁ言えば良かった」「こう言えば良かった」と地団太を踏むわけですが、冷静になってみると、よくよく自分は日本人だぁと痛感します。言われたら言われっ放し。まぁそんな経験を繰り返すことで、フランス語にも磨き(?)がかかってくるわけですが。。 
パリに長い年輩のツワモノ共は、やられたらやりかえす、を信条にしている人が多いですね。なぜなら、言わないと何にもわからない文化だから。言葉に出すことで初めて、相手も気づくし、納得することは稀にしても(笑)、何かの発展は望めるわけです。そんな人たちの勇敢な(?!)エピソードを聞くにつれ、やっぱり海外で暮らすのは容易じゃない、と思いますね。。

なので、ブログでは、なるべく「楽しい」話題を提供したいと思っています。


普段はともかく、たま~に食べたくなるのがインスタントラーメン。パリでも簡単に手に入ります。「簡単に」とは言っても、普通のスーパーではあまり売られていません。「あまり」というのは、フランス国内で、日本製の食品をつくっている場合もあるので、そういった、Made in Japan ではないけど、「もどき」のようなものは普通のスーパーでも手に入るようになりました。
写真の「親方ラーメン」は、これは日系か、中国・韓国の食品店じゃないと手に入りません。このラーメンが特に美味しいというわけではないのですが、今まで純日本製のラーメンといえば、日清の「出前一丁」だけだったのです。しかも、日本では売られていない味が何種類もあります。
この「親方ラーメン」は、そんな独占的な市場に、ここ数年、殴り込みをかけているというか、新規開拓でがんばっています。だからと言って、別に味の素のまわし者ではないですが、このラーメンをパリの家でつくっていると、郷愁といいますか、遠い日本が懐かしく思い出されます。。

因みに、写真上にちらっと写っているみかんは、日本製ではなく、スペイン製です。日本のみかんに良く似ていて、むきやすくて美味しいのです。スペインの友だちは、このみかんに誇りをもっています(笑)。



2013年9月17日火曜日

新学期  La rentrée !



さてパリでお子さんをお持ちの方は、とっくに新学期を迎えていることと思いますが、我が夫は大学生の身分なので、まだ始まっていません。来週から始まります。その前に、新年度の予定を秘書室で確認したり、借りていた本を返したりと、大学へ足を運びました。これはその大学の中庭の一部。気温が下がったせいか、ゼラニウムなど、涼しさを好む花々が色どりを添えていました。木々はすっかりではありませんが、枯れ始めていました。


先日、また1つの修道院での仕事を終えたので、打ち上げと称して2人でクレープを食べました。なぜかこの季節になると、クレープが食べたくなります。
ここはカトリックセンターの近くにある、いわば「クレープ街」、モンパルナス通り(Rue Monparnasse)にあるカフェです。この通りは軒並みクレープ屋さんが立ち並んでいるので、どこにするかはお好み次第ですが、どこに入っても外れはないようです。
写真はクレープ・シュゼット(Crêpe Suzette) 。クレープに、ラム酒に火をつけてアルコールを飛ばしたものをかけて食べます。2人とも同じものを注文しましたが、こんなにラム酒が効いたクレープ、初めて食べるね、と2人でびっくりしていました。美味しかったですが。


これもまた、夫がつくった渾身の(?!)オムレツです。ステンレス製のフライパンを完全に使いこなし、全く焦げ付きなしで、オムレツを作れるようになりました。何度も何度もつくって、ようやく満足できる仕上がりになったと、当人大喜び。食べるわたしも大喜びですが、なぜに夫がつくったものしかブログに載せてないんだろう?と首をかしげるこの頃です。友人の中には、「失業しても、慎太郎さんにはシェフ(料理人)の道もあるわね。」と言う人もいて、大笑いです。

2013年9月15日日曜日

とあるカフェにて

  
さて、ここはどこでしょう?
はい、食事をしている人がいるのが見えますね。カルチエ・ラタンにあるカフェです。
以前からよく前を通りがかっていて、気になっていました。それは大抵夜だったので、中をのぞくとぎっしり、特におしゃれで若い女性が多かったお店です。ひょんなことから友だちと中に入って食事をすることになりました。昼食です。その友だちは、入るなり、大感激。一遍で気に入りました。わたしも、このインテリアがいたく気に入り、これから使いまわそうと思っています。
この壁に並んだ本もそうですが、厨房の入り口には、与謝野晶子や岡本かの子の句が縦書きしてあったりして、文学好きにはたまりません。

 
反対側の壁にも本がずらり。そしてなぜかルイ18世の写真と経歴が記してありました。こんな手の込んだ(趣味的な?)カフェは、久しぶりです。
インテリアをぐるりと眺めているだけで、時間が過ぎて行ってしまうような、不思議に魅力あるカフェでした。

 下の2皿は、このカフェで、わたしと友だちが注文した料理です。

友 だちのは赤と黄のピーマンに、オーガニックの豆類と穀物がぎっしりと詰まったファルシー。(ソースも美味しかった!)わたしのは写真だと分かりづらいですが、山羊のチーズを丸々温め て、新鮮なサラダといちじく(Figue)を付け合わせたものです。どちらもびっくりするぐらい美味しく、ボリューム満点でした。


 
 パリはすっかり秋模様です。日中も20度を下回り、街路樹も、少しずつ枯れていっています。どんどん寒くなって、枯れ葉が舞うようになると、秋も本番となります。もう薄着の季節は終わり。コートとブーツの季節です。
地方では、狩猟が始まりました。今年のジビエ(鳥獣肉-鴨やウサギ、イノシシ等の肉)のお味はどうでしょうか。。。また報告します。
  

2013年9月13日金曜日

結婚記念日 


この間、結婚記念日でした。2人の出会いから丸10年。結構な年月が流れました。
この花束は、記念に注文したものです。
パリはすっかり秋模様。日中も、20度を超えることはなくなりました。街路樹もそろそろ黄葉を始め、秋の気配が、街のあちらこちらで感じられます。
人々の服装も、もう薄着は終わり(若い人、観光客は別ですが)、上着が手放せなくなりました。
部屋の中も薄暗く、写真も、そんな中で撮りました。

結婚生活と同時に始まったパリでの生活も、10年目を迎えたと思うと、感慨深いです。
月並みですが、毎日を感謝して、喜びのうちに生きたい、そして志を同じくする人たちと連帯し、世界の平和、環境への真剣な取り組みに協力したい、と思います。

教会で挙げた結婚の記念日は9月11日。あの、もうちょっと遠い記憶になりつつある、9・11の日です。敢えてその日を選んだのも、世界の平和を願う気持ちからでした。
国境を越えて、すべての人と繋がって、地球を守って行きたい、心から思います。
 

2013年9月8日日曜日

「マノン・レスコー」を読んで


ブログに、初めて書評のようなものを書きましたので、お時間のある方はお付き合いください。


昨夜、以前から読みかけていたフランスの恋愛小説、「マノン・レスコー」を読み終わった。

まだ本書を読んでいなくてこれから読もうとされている方は、以下の文をお読みにならないでください。逆に、興味はあるけど読まないから、という方はもちろん、人生において一度でも真剣な恋に堕ちたことのある方にこそ、読んでいただきたいと思います。

さて本というものは、わたしにとって2種類に分けられます。1つは読みやすい本、もう1つはもちろん、読みづらい本。この「マノン・レスコー」は、明らかに後者に属していました。というのは、良く言われるような悪文だからというのではなく、その内容が、あまりに激しいものだからでした。

このフランスの恋愛大国にあって、その頂点を極めた小説として名高い本書は、 1731年、作者アベ・プレヴォが、オランダへ逃亡中に出版されたものである。作者34才の春であった。彼の生涯は、不明な点も多いとはいえ、知られている限りでも波瀾をきわめたものであり、この書は彼の自叙伝ともいわれている。この書の主人公であるシュバリエ・デ・グリューは、名家の出であり、10代から僧院での生活をしているように、アベ・プレヴォもまたそうであった。僧院から無断で離れたために、逮捕状が出されるはめになるところなど、 シュバリエと重なっている。この逮捕状のために、アベ・プレヴォはイギリスやオランダなどに逃亡したり、軍隊生活を送ったりしなければならなくなるが、ようやくその逃亡生活に終止符を打つことができた年には46才になっていた。その間も精力的に小説を書き続け、晩年には小説の主な舞台となったシャイヨーにある修道院での院長となり、静かな生活を送りながら書き続けた。67才でその生涯を閉じるまで、その著作数は、二百を超えたという。

さて読んだ感想であるが、まずこの話しの語り手であり、マノン・レスコーの崇拝者であるシュバリエ・デ・グリューの、マノンへの愛情表現が激しく、これ以上は人を愛せないであろうという類のものであることが、まず、読者を驚かせるであろう。18世紀という時代もあり、パリの上流社会という特殊な世界が背景に あることも読み手を本の世界に馴染ませるのに時間がかかることもある。しかしわたしは、フランスに住んでいる以上、この本を読まないで済ますことはできないと考え、忍耐強くページを繰った。何より、シュバリエの心の美しさ、純粋さに魅かれた。彼はマノンに出会ったときは、まだ17才であった。そしてマ ノンの年は不詳だが、それより若いとある。そんな年端も行かない子供同士が、というよりだからこそ余計、恋の熱情に身を任せることができたのであろう。 シュバリエの今でいうところの純粋培養で育った良家のおぼっちゃまが、美しい女性に恋をする物語なのである。否、それでは言い足りていない。身も心も、1人の女性に捧げつくした、1人の男の悲劇的な物語、と言った方が、まだ言い得ているであろう。
マノン・レスコーといえば、いわば悪女の代名詞のようにいわれるが、彼女が人並み以上の美貌をもち、しかし家が貧しく、教育が満足にされずに育った女性としてみれば、容易に理解できる女性像である。シュバリエとの出会いは、そもそも、彼女のなかにすでに芽生えていた享楽的な性格を矯正するために、修道院に送 りこまれようとする前夜、その途中にある宿屋でであった。一方シュバリエは、両親から勧められたアミアンでの学業を終え、実家に帰る途中であった。

シュバリエのことを改めて紹介しよう。というのは、彼の属していた社会が、いかにマノンのそれと違っていたか、しかし女性を誠に愛することのできる男性が、どういう人物だったかをしれば、なお一層、この物語の悲劇性がわかるからである。本文から引用する。「わたしは17才であった。そうして、名家に属する私の両親が、私を遊学させたアミアンで、私は哲学の家業を終了した。先生たちが私を学校中の模範に推挙したほど、私は慎み深い、几帳面な生活を送ったのであっ た。それも私がこの賞賛に値するために格別の努力をしたというのではなく、ただ生まれながらにして温良な、物静かな気質を私はもっていた。私は好んで学問に身を入れた。私の門地と、学業の優秀なこと、及び容貌の与える快感とによって、私は街中の教養ある人々に知られ、かつ衆望を集めた。司教が私に僧籍に入る ことを奨めたほどであった。」 
こうした、派手ではないが、確かな業績を残したシュバリエは、故郷の父の家へむかう途中の宿屋で、マノンとの運命の出会いをしてしまうのであった。何たる運命であったろう。シュバリエ自身が、後に自分の物語を回想する場面ではこう嘆息している。「あぁ!どうして私はもう一日出発を早めなかったのであろう。そうしたら私はあらゆる私の純潔 を父の家に持って帰れたであろうのに。」と。しかしこの宿命の出会いの瞬間から、シュバリエは恋に落ち、その奴隷となって苦難の道を歩むことになってしま う。


 話の詳細は避けるが、純粋な魂といのものが、破滅への予感や、実際に転落していく運命に翻弄されながらも、愛する対象のためには命を惜しまない、ということがどうしてできるのか、それが理解できるか否かは、読み手に委ねられている。このような、現代にあっては皆無と思われるような純粋な魂の行方が、つまりは破滅に向かうしか道はなくなってしまうという悲劇を、この本でも学ぶことができる。現代の人々が、この破滅を未然に防ぐ手立てとして、異性に対し、賢く振舞うようになったのは、こうした小説が、危険を教えてくれ たからだ、ということもできるかもしれない。とはいえ、日本では江戸時代でも心中物はとても人気があったというのだから、この純愛を、命をかけて貫く物語は、古近東西を通して普遍の、心を打つものとして不動の人気があるのであろう。
つまりは、一度でも真剣に恋を経験した人間ならば、シュバリエの立場が、痛いほどわかるであろう。

またこの話の特筆として、シュバリエには心から信頼できる友がいたことである。
他の誰もが、実の父親でさえも見捨てたシュバリエを、最後の最後まで救いだそうと尽力を施したのは、ただ1人、彼だけであった。彼が、最終的なシュバリエの救いとなったのである。さすがの神も、1人ぐらいはそうした人物を設定しないことには、もちろん小説としても成り立たなかったであろう。
この悲劇の主人公、私は敢えて、マノンではなく、シュバリエをそうとらえるのであるが、彼には、その最後まで忠実なただ1人の友、チベルジュがいた。彼の境遇は、シュバリエのそれよりは劣るが、修道僧としての確固とした考えをもった人物であり、シュバリエを心からの友として愛している。彼の愛するシュバリエが、恋ゆえに放蕩におぼれ、没落して行く中で、何度か助けに入るのも彼であるが、彼は恋の素晴らしさを信じていなかった。彼は、シュバリエが経験していることは、悪による偽の幸福に溺れている罪人たちと 同じだと断じる。そして自分を不幸に導くとわかっていながら進んで不運へ、罪悪へと急いでいるのは、理性に反する、とシュバリエを非難するのであるが、それにシュバリエはこう答える。「チベルジュは間違っている。自分は彼女を愛している。それは幸福の幻影ではない。全宇宙が崩壊しても、自分は彼女の姿を見るであろう。なぜなら、自分は他には何も愛さないからである。」

しかし、愛を、全き純粋な愛を至上のものとする一方で、現実問題としてお金が果たす役割は、現代以上に大きい時代であった。もちろん革命を経験する前のフランスとして、階級が厳然と存在していた。高貴な身分のシュバリエが、恋のために金銭によって破滅して行く様は、現代以上に大きなことであった。しかも愛する対象は、金銭や豪奢な暮らしに目がない女性である。
この小説の中では、マノンの美貌に引きつけられた身分の高い男たちが数多く登場する。マノンが、その金銭を目当てに自分の体を売るのであるが、それは彼女のポリシーには反しない。「心の操」だけが問題なのだとシュバリエに言ってのける。そのたびに、可哀想なシュバリエは、悲壮なまでに苦しむのであるが、最後にはマノンの「この世のものとは思われないほどの美しさ」に負けてしまう。これでもか、これでもか、という仕打ちに、読んでいる方としてはほとほと付き合いきれないものを感じてしまう。この金銭の価値という ものが及ぼす甚大な影響に驚かされるが、それ以上に、外見の美しさの価値を、これほどまでに高く重んじる民族性にも驚くものがある。西洋における美に対する価値観は、日本のそれと比べてはるかに、それこそ想像を超えて大きいということに驚くばかりである。考えてみれば、西洋画や彫刻には、女性美を賛美することが1つの文化になっている。ひるがえって日本はどうであろう。浮世絵をすぐ思い浮かべるが、あれはあくまでサブカルチャーであって、日本文化の本筋ではない。もちろん、日本女性の美を描いたものも、近年はあるのであるが、西洋のそれとは露骨さが違うように感じる。18世紀のフランスは、特に上流社会にあっては、本物の美に対しては金銭を惜しまない、という風潮が強かった。

こうしたことをつらつら考えながら、パリの街中を歩くのも一興である。日本に住む日本の方々には想像しにくいかもしれないが、小説を読んだ後街を歩けば、 小説そのままの人々が街中を歩いている。もちろん、映画館で映画を見た後も同じ。日本で西欧の映画を見終わったら、街に出ればいつもの日常がある だけで、映画の世界は別世界だったで済むのであるが、こちらではそうはいかない。その映画の世界が、そのまま現実の世界として続いているのである。そうした世界に、海外に住む日本人は暮らしているということを知って欲しいと思う。そういう中で生きている人間として、何が発言できるのか、ということを、常に突き付けられているとも言える。

 
 話を元に戻すが、人間の真実の姿というものは、本当に心を打つものだと思う。主人公の数々の、心からの叫びを紹介したいと思う。シュバリエが、マノンに投げかけた言葉で、特に感動的なものを取りあげようと思う。
「お前は女だ。男が要るに相違ない。けれど、お前に必要なのは金持ちで気楽な身分の男だ。(......) ところで僕には、差し出せるものといえば、愛と変わらぬ心しかな い。女というものは、僕の貧乏を軽蔑して、僕の純粋さを玩具にするのだ。」
またマノンが不貞を行った後での弁明については、その「正直一途の」言い方に感銘をし、「彼女は悪意なくして罪を犯しているのだ。」とシュバリエは悟るのである。
最後には、とうとうマノンはその放蕩の挙句、囚人として、奴隷のように鎖につながれ、アメリカ大陸へと運ばれる運命となる。シュバリエは、その運命を共にする悲痛な決意をする。「世界中の奴らが僕を迫害したり裏切ったりするのだ。(......) 僕は自分から進んで、僕の没落を仕上げるために、この悪い運命に手を貸してやるのだ。」 そして囚人の姿となり果ててもなお、美しい姿でいるマノンに再会し、2人は地の果てといわれたアメリカ大陸で、ついには2人だけの幸せな生活を送 る。
彼らは、愛の確かさ以外は、「世の人々が価値があるとするものを、ことごとく失った。」後で、しかし「愛し合う恋人同士にとっては、宇宙全体 が祖国ではないか。」と悟る。そして新大陸での新生活では、「気違いじみた貪欲も、馬鹿げた名誉心なども関係なく」幸せな生活をつかの間送った。しかし、その幸福ですら長くは続かなかった。
以上の他に、シュバリエの言葉として書き記しておきたい言葉はたくさんあり過ぎて困るほどであるが、以下に記す。
「君と一緒にいて不幸せなのは、僕には結構なことだ。」
「僕はいまや自分の欲しいものはすっかりもっている。君が僕を愛してくれる。ね、その他の幸福を、今まで僕が願ったことがあるか。」
こうした数々の心の叫びを経験した後で、アメリカ大陸で無一文になってから、マノンは心からの改心をした。
人は、全てを失った時に見えて来るものによって、奇跡的な改心をすることができるのである。それこそが、誠の愛の力であろう。自分(筆者)の経験からも、愛こそが、真実の愛のみが、人を全的なものとして完成させるのであると思う。人間が、人間らしくいられる、最後の砦となるのが、愛であろう。
マノンの心からの改心をしったシュバリエは、ついに神の御前で結婚しようと申し出る。2人は幸せの絶頂を感じるのであるが、運命の糸は、2人にとってあくまで残酷であった。正式に結婚しようとした矢先に、そこでもま た、マノンの美貌が仇となって、急速に悲劇へ向かう運命となり、結末を迎える。シュバリエは、最後の最後で、彼女の愛を一身に受けた後で、永遠に彼女を失ってしまうのである。

 こうして話の筋を追ったあとで思うのは、なぜ、神はこの2人にこうも残酷な運命を与えたのか、ということである。もちろん、小説なのだから、と一笑に伏してしまえば良いことなのかもしれないが、わたしにはこの結末は辛すぎる。ただ、やはり悪は罰せられ、善人は最後には助かる、という勧善懲悪をみることもできないわけでない。しかし、マノンを失ったシュバリエが生き残ったこと、それからの人生を亡きがらのようにして過ごすだろうことを考えると、やはり神はこの2人に、一般人以上の惨さを与えたように思えてならない。少なくともシュバリエには、何の罪も認められないのであるから。ただただ偏に、愛する女性に翻弄されてしまった、弱い、しかし悲しいほどに美しい魂をもった男であっただけなのである。シュバリエを愛する読者として、最後まで納得がいかない筆者であった。
この物語から、様々な教訓を引き出せると思うが、それはそれぞれの読者諸氏に任せたいと思う。
長々とお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
 


尚、写真は、Jardin des plantes (パリの5区にある植物園)です。すでに秋の花々が咲き乱れていました。

2013年9月4日水曜日

まだ暑い夏です!

  
今午後の6時過ぎですが、気温が31度もあります。もうそろそろ秋かなぁと思い始めていた矢先、昨日からまた真夏へと逆戻りとなりました。 あまりに日差しが強いので、窓の鎧戸をしっかり閉めています。でも外は真昼のような明るさです。
写真は、自宅近くにある広場の様子です。これは2日前の写真なので、気温は20度ぐらい、日本の秋晴れのように明るく澄んだ青空だと思い撮りました。飛行機雲が見えますね。

今年の夏は、日本は記録的に暑かったそうですが(今でも暑いのでしょうか)、パリも同様でした。テレビの天気予報のお姉さんは、今年の7月のパリの暑さは、1900年以来、3番目に暑かった記録だったと言っていました。冬、春が記録的に寒かったのと同様、夏も記録的に暑くなったとは。何という異常気象でしょうか。これはもう、地球規模ですね。

地球規模といえば、8月末をもって、地球の再生化はマイナスになったそうです。つまり今までは何とか1年を通して天然の力で地球環境の汚染度はプラマイゼロとなっていたのが、もうこれからはそれが追い付かずに汚染していく一方だそうです。大変な世の中となってきました。今までのような消費社会を完全に見直す時期に来たようです。

 左の写真は、以前ご紹介した、家で育てている3鉢の植物と木です。写真には写っていないドラセナ(大人の身長ほどあります)、恩師からいただいたベゴニア、そしてカニサボテンです。皆、窓辺に置いているので、好天に恵まれて、ぐんぐん育っています。ベゴニアは、もう春からずっと、ピンクの可愛い花を咲かせつづけています。
気持ちを鎮めたい時、リラックスしたい時はもちろん、暇をみてはこの3鉢を飽かず眺めています。




さて、また例によって食卓の風景を載せます。純和風の夕飯です。まるで昔の日本の朝ごはんのようですが、最近は肉を食べなくなりました。それとパン、というかバゲットも大好きですが、夜にまで食べたいと思いません。夫には、わたし(=日本人女性)と結婚して良かったでしょう?と堂々と聞けるのは、こんな食事を2人で楽しむことができる時ですね。フランス人女性とだったらちょっと難しいのではないでしょうか?(とはいえ、魚を焼いたのは夫ですが。)