2017年10月28日土曜日

人類愛、そして自由と隷属について アルベール・カミュより L'amour humain, la liberté et la servitude d'après Albert Camus 

Jardin du Luxembourg リュクサンブール公園

ここは、パリの左岸で最もパリジャン・パリジェンヌに人気のあるリュクサンブール公園です。
この公園は、ここで何回も登場しているのでいつもより少し詳しく説明を加えると、写真に写っている場所は、リュクサンブール公園の中でも最東端に位置し、東門(と言うんだろうか)の出入り口から近くにある景色です。ここを出るとすぐに、RER (郊外線)のB線の乗り場があり、目の前には Place Édmond Rostand (エドモン・ロスタン広場)があります。彼は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した劇作家で、戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」の作者として、特に知られています。そのロスタンの名を冠したカフェも広場に面してあり、私も何度か夫や友人たちと利用したことがあります。
写真にある、ちょっと分かりづらいですが、左手にある白い像は、やはり19世紀に活躍した女流作家、ジョルジュ・サンドです。

Société Centrale d'Apiculture  Rucher-école du Jardin du Luxembourg

こちらは季節はずれですが、ちょっとご紹介します。
このリュクサンブール公園の敷地内には、こうして小さな養蜂場があります。6月から7月にかけて、園内にある菩提樹や、温室から外に出されるオレンジの木々の花を餌にして、ミツバチが飛び交い、蜂蜜を作ります。

右の写真の看板は、この養蜂場の入り口に立てられていたもので、
ミツバチがそろそろ活躍する頃に出されて、そのままになっていました。
こうした説明書や、看板を読むのが好きなので読んでみると、
ミツバチが餌にする菩提樹は、蜂蜜にミントの味を付け加えるのだとか。
知りませんでした。菩提樹といえば、シューベルトの『リンデンバウム』で知られているように、ヨーロッパでも広く分布し、その香りが人々に愛されていますが、ミントの味になるとは。今度じっくりそのハーブティーを飲んでみようと思います。
Les tilleuls alimentent les abeilles en juillet. Ils donnent au miel un petit goût de menthe.



さて、話題を変えて、読書の秋、ということもあり、ここでフランス語の文章を載せたいと思います。

突然ですが、アルベール・カミュ Albert Camus の、ある国外追放されたジャーナリストへの賛辞 Hommage à un journaliste exilé 1955年の記事です。

<Je ne puis aimer l'humanité entière, sinon d'amour vaste et un peu abstrait. Mais j'aime quelques hommes vivants ou morts avec tant de force et d'admiration que je suis toujours anxieux de préserver chez les autres ce qui, un jour peut-être, les rendra semblables à ceux que j'aime.
La liberté n'est rien d'autre que la chance d'être meilleur, tandis que la servitude est l'assurance du pire.>

一応、私なりに翻訳してみます。
『私は人類全体を愛することはできない。愛するとしても漠とした、抽象的なものとなるだろう。しかし、私は幾人かの生きた、あるいは死んだ人々を、非常に強く、賞賛をもって愛しているが故に、その他の人々のうちに、その自分が愛している人々に彼らを似たようなものにさせる何かを維持することに、常に心を砕いているのである。
自由とは、より良き者となるチャンス以外の何物でもなく、一方、隷属とは最も悪しきものの保証なのである。』

この文章は、私が周囲のフランス人との関係に悩んでいる時に、夫が提示してくれたもので、確かに、この文を訳すことによって、徐々に救われた思いになりました。

ここで、アルベール・カミュについて、多くを語ることは避けますが(ご興味のある方はネットで調べてください。)、第一次世界大戦の前年(1913年)にフランス領アルジェリアに生まれたことは、彼の生涯に大きな影響を与えたと思われます。第二次大戦中に刊行された初期の作品である『異邦人』や、エッセイの『シーシュポスの神話』は、日本人にも広く馴染みのあるものだと思います。

上記した彼の文章の特徴として、anxieux という単語と、assurance という単語が、それぞれ、本来の意味とは違った意味で使われているということでしょうか。anxieux とは、そもそも、非常に強い不安感をあらわす形容詞なのですが、ここではむしろ、心を配っている、相手への配慮と訳しました。また、assurance は、保証、という意味で、本来は良い意味なのですが、「最も悪しきものの保証」といった、悪いものを強調する単語として使っています。

Champignons 秋の味覚、たくさんの種類のきのこ。真ん中はしいたけ(Shitake)

要約すると、「自分は全ての人間を愛することは出来ないけれど、そうだとしても、心から愛している人々というのがいるから、他の人々のことも、自分が愛せるようなものがないかと、いつも心を砕いている。」ということでしょうか。
次のパラグラフは、話題が一転して、その宛先である国外追放されたジャーナリストに向けての言葉となります。「自由とは、より良き者となる最大のチャンスであり、誰か、あるいは何かに隷属するということは、人間にとって最悪の状態なのだ。」

自由でいること、何者にも囚われず、自分自身であり続けること。これこそ、カミュが、その短い生涯において徹底させた生き様ではなかったでしょうか。

そんな「自由」、「自分自身である」ことは、フランスにおいても、闘いの一つとなりますが、ここでは必ず連帯できる仲間がいる、というのが生きている醍醐味となっています。一緒に闘っているはずが、ふと気づいたら誰もいなかった、なんてことはこの国ではないと信じています。

そんなことに、改めて気づかせてくれた文章でした。

Rue Daguerre ダゲール通りの果物屋

今夜、正確には明日、日曜の午前2時から、冬時間となります。こちらでは1時間得した気分になりますが、日本との時差は8時間となります。
いよいよ秋の夜長。さて、今年はどんな事をして楽しみましょうか。






2017年10月18日水曜日

カナルサンマルタンとビュットショーモン  Canal Saint-Martin et Parc des Buttes-Chaumont


ちょうど2週間前に、大学の同級生がパリに来ていたので、その時の様子をお伝えします。

いわば、久しぶりの再会を楽しみつつ、普段は訪れないパリの観光地を二人で散策しました。
日本から来る友人たちは、皆、せっかくのパリを堪能しようと繰り出すため、普段パリに暮らしていても滅多に寄らない所に行けるのが新鮮です。

ここ、カナルサンマルタンもしかりで、うちから遠くないのに訪れたのは久しぶりでした。
昨今は、ここから西北の方向に難民の溜まり場ができているために、それも疎遠の理由の一つだったでしょうか。偏見は持たないようにしているつもりですが、危険というよりは衛生面の問題が気になります。
そんな事情を友だちに伝えたのですが、「折角来たんだから行きたい」ということで敢行しました。


でも実際は危ないことはなかっただけでなく(しっかりと用心はした)、あちらこちらで日向ぼっこをしている人々に遭遇しただけでした。観光客とみるとひったくりに狙われる可能性も高い地域でもありますが、それも大丈夫でした。

ご覧のとおりの秋晴れ。
2週間前なので、今だともっと黄葉が進んでいることでしょう。

待ち合わせ場所はレピュブリック広場。ここには、一番最近では大統領選に向けて、極右のマリ・ルペンへの抗議デモに参加するために訪れて以来ですね。

レピュブリック広場から、
カナル(運河)に添って北上しました。

船が通り抜けられるように、こうした太鼓橋が
いくつも架けられています。トップの写真同様、この光景を久しぶりに見ました。
懐かしくて感動しました。

これもパリの観光名物の一つですね。

途中、船の運航があり、一部始終をじっくり友だちと見物しました。



カナルサンマルタンといえばここ、「北ホテル(Hôtel du Nord)」がつとに有名ですが、
こちらはすっかり様変わり。映画に出てきた古びた姿が一新、すっかりおしゃれになっていました。
「これじゃ、情緒もへったくれもないね。」と友だちと残念に思いました。衛生面、耐久性の問題でリニューアルしたようです。でもこれじゃ、パリのどこにでもあるカフェと変わりがないですよね。
そして手前のヴェリブ(貸し自転車置き場)が新設されているのも、時代の流れを感じさせます。

余談ですが、最近フランスでは、VAE (vélo à assistance électrique) という電動アシスト自転車が流行っています。今年の2月から、購入の際に国から補助金(購入額の20パーセント、最高200ユーロ)が出るようになったのが人気の理由ですが、その補助金が来年の1月末には打ち切られるということで、益々注文が殺到しているようです。
ヴェリブを進化させたこの VAE が流行るのは、坂道も多いパリではいわば当然ですが、電動で運転が楽というメリットは大きいでしょう。いずれにせよ、双方ともに、地球環境のためには大いに役立つものと思われます。パリから車やバイクが消えて、自転車だけになる日も近い(?!)


Parc des Buttes-Chaumont

さて、所変わって、とはいえ、隣の区、19区の南に位置するビュット・ショーモン公園です。

カナルを充分に堪能し、運河の北部のヴィレットまでは行かず、途中東に進路を変えての到着です。ここに来るまでに、汗びっしょり、上り坂の連続でしたが、ここの公園も、アップダウンが激しいことで有名です。
そもそも名前のビュット、Butte は、小さな丘という意味で、単に La Butte というと、皆様ご存知のモンマルトルの丘のことを指します。パリの最南部にあるモンスーリ公園も高低差のある土地で、こうしてみると、パリという地形が、結構起伏に富んでいることがわかります。

それと、これだけキツイ上り坂でも、パリジャンたちは、黙々と走っています。

それにしても、30年前のパリで、走っている人なんて皆無だったのに、昨今の健康ブームから、ジョガーの姿を街中で見ない日はありません。
先日はパリ10キロマラソンがあり、みんな元気に楽しく走ったようですね。

La vue de la butte la plus haute

どれほど高低さがあるかは、これで一目瞭然でしょう。写真にすると中々ですが、実際はもっと迫力があります。一番高い位置にある物見台に繋がる、吊り橋の途中から撮りました。

この橋を渡りながら、お互い、日本とフランスで、どう生きて行くかを話した事が、思い出となっています。住む場所は違っても同じ年、同じ目線で何でも話し合えるのは楽しいですね。
今度は私が一時帰国の際、東京での再会を約束して別れました。



追悼

先日、年下の友人が亡くなりました。乳がんでした。
心からご冥福をお祈りします。
今は、全ての苦しみから解放されて、
神様のみもとで安らかなることを願っています。
詩子さん、助けてあげられなくてごめんなさい、
そして楽しい思い出を沢山、ありがとう。





2017年10月11日水曜日

お萩 - 母の誕生日に


秋の夜長に小豆を炊いて、お萩をつくってみました。

と書きたいところですが、実際につくったのは先日の何の予定もなかった午前中でした。
早朝ではなかったですが、朝から小豆を煮るのも悪くありません。
午後から友人が来るのでつくったのですが、実はお萩は初挑戦。小豆はよく煮て、これまでも白玉をつくって入れて善哉にしたり、お餅を焼いてそれに乗っけて食べたりしてきましたが、お萩は初めてつくりました。

私は、両親、祖父母ともに東京出身の江戸っ子で、父方は、私の生まれ育った家に、代々暮らしているので、1923年の東京大震災も、1945年3月10日の東京大空襲も経験しています。
墨田区の本所という土地で、「本所・深川」というと、よく時代劇に登場する土地でもあります。
まだ少し先ですが、年末によくテレビで放映される、あだ討ちの地、吉良邸も両国の近くにありますし、葛飾北斎も、そこで生まれました。
そんな土地柄に生まれた私は、小学生になると、JR の両国駅から、ランドセルをしょって、遠くにある学校に通ったものです。そんな遠い昔からすると、両国駅周辺もかなり様変わりしました。あんまり言いたくないですが、もうかれこれ40年は昔ですから、変わるのも当然ですよね。

それから橋向こうになりますが、蔵前、浅草にも近い土地柄です。
浅草は言わずもがな、ですが、蔵前は昨今、清澄白川に次ぐ、下町のおしゃれなエリアとなっています。なぜそうなったのかは地元民としても未だ不思議なのですが、蔵前は浅草橋にも近いので、手づくりの可愛い雑貨店も多く、歩いていても楽しいです。

さて、なぜこんな事をつらつら書いているのかというと、母方は、文京区の本郷出身で、父とは違って山の手、そこから母が下町の父の元へと嫁いできたことが、このお萩に繋がるのです。
母は、山の手出身とはいえ、昭和8年生まれの6人兄弟の次女、長女の伯母が、医者に嫁いだのと違って、全く気取りのない女性でした。父は紙職人です。
鉢植えも、道を挟んだ向かいの八百屋さんからもらってきた発泡スチロールを使うような、大らかなタイプでした。
そんな母のつくるお萩は、いわゆる牡丹餅風でとにかく大きい。そんな母を思い出して今回つくったのが、上の写真にあるような、巨大な(?)お萩なのです。

気取りが全くなく、笑うのが好きで大勢の友人に恵まれた母は、満52歳で亡くなりました。
実は今日が、母の誕生日なのです。
死んだ人は、亡くなった日が記念日となりますが、やはり誕生日も忘れがたいですね。
以前日本は体育の日が10月10日と決まっていましたから、その翌日、ということで覚えやすかったこともあります。

小豆をじっくり時間をかけて煮て、砂糖を入れてからは豆が黒光りしてつやつやするまで煮込んでいる母の姿を、うっすら思い出します。

そして沢山つくったお萩を、近所に配っていました。もう、亡くなってから、32年の月日が流れています。そうした下町のあり方は、まだ今も残っています。 一時帰国のたびに、近所に挨拶して回る楽しみがあります。


まだ書ききれないことが多くありますが、今はこの辺で。


震災祈念堂の菊祭り-数年前の一時帰国の際



2017年10月5日木曜日

秋晴れ、そして「この世界の片隅に」を観て  Le beau temps automnal et le film " Dans un recoin de ce monde "


この2、3日、パリは晴天が続いています。
今朝はうす曇ですが、午後から18度前後になる予報で、パリで18度というと、軽装する人々も多くいます。私も昨日、外出するのにダウンジャケットを羽織ったのですが、夕方からの気温の上昇で汗をかきました。体温調節を上手にする必要をいつも感じます。

さて、ここはご存知ソルボンヌの正面前広場です。
黄葉した木々も、次々と落ち葉を落として、すっかり秋の景色となっています。

しかしこのサン・ミッシェル大通りも、かなり様変わりしています。
カルチエ・ラタンの名にふさわしく、名門校が軒を連ねているとはいえ、以前本屋だったところが、洋服や靴を売るブティックになって驚きます。夫曰く、「今は本はみんなネット注文するようになってしまったんだよね。本屋はアマゾンに勝てなかったんだね。」ということらしいです。

もちろん、Gibert (ジベール)などの老舗の本屋でがんばっているところもありますが、かなり古くから経営している本屋や出版社が店仕舞いしてしまっています。時代の流れとはいえ、カルチエ・ラタンがファッションのお店ばかりになっては悲しいですね。

映画館の入り口のポスター。第一次世界大戦当時のもの。

ここは、そんな様変わりしつつある、サン・ミッシェル大通りから1本入った小道 (rue Cujas) に面した、小さな映画館です。小さいながらも、味のある映画を上映するところで知られていますが、私と夫は日本のアニメ、「この世界の片隅に」を観ました。

上映前、人がポツポツとしかいなかったのが、始まる頃には劇場が満杯になるぐらい人が入りました。アニメということで、子供連れの家族もちらほらいました。

映画のことを書く以上、感想を述べなくてはなりませんが、実は私たちは映画を観るのがかなり久しぶりだったということもあって、パリで映画、しかも日本の映画を観る楽しみ、というのを久しぶりに堪能しました。「こんなところで笑うのか」というのがとても楽しく、自分たち日本人が受けるところで全く受けない、というのも面白いですね。

ストーリーとしては、戦争ものを描いているとはいえ、反戦ではない、というところがミソらしいですが、なるほど、広島の原爆も、呉市から経験するということで、直接ではないですね。最後に被爆したお母さんと女の子が出てきますが、それも、その子を養女にすることで、悲惨よりも希望として描かれています。
私は正直、主人公のほのぼのとした感じに、最初は馴染めず、苛立つものを感じてしまったのですが、一歩引いて考えると、こんな感じで日々を過ごしていた当時の女性たちは多かったのではないか、とも思えます。目の前のことに一生懸命で、でもどこか肝心なところが少し抜けているような。この主人公のすずは、実は過激なことを描くのが目的の中にあって、その緩衝材になっているのかもしれません。


そもそもこのアニメは、過激なものを描くことで知られている監督のものだそうで、なるほど、主人公を通して全体としてはほんわかとした描写とはいえ、繰り返し登場する爆撃の場面は迫力満点、観る者を圧倒します。こういうのを観ていると、「日本人って、表面上は真面目で大人しく振舞っているけれど、実は過激な人種なのでは?」と思ってしまいます。

反戦を描かずとして、では作者は何を訴えたかったのか?
映画の終わりの方で、玉音放送を聴いた主人公は、ついにその仮面(?)をかなぐり捨てて激高するわけですが、そこでは「国家の暴力」についてだけ触れているのであって、決して戦争自体についての批判を唱えるわけではありません。むしろ当時の、「一億総玉砕」を叫び、その思想に完全に染まってしまっています。そもそもの戦争の悲惨を嘆いているわけではありません。それは当時、そうしたところまで思い至ることのできた一般市民はごく僅かだったという意味で、リアルを描いたということで間違いではないでのしょう。

しかし、観ている者としては、今の時代に、わざわざこの映画を上映することの意味を考えざるをえません。作者は一体何を伝えたかったのか?ただ当時のリアルを描きたかっただけなのでしょうか?

やはり私は、この映画は反戦、否、厭戦を訴えたかったのでは、と思います。
主人公のおすずちゃんのような、ほのぼのした生き方をしていては、こんな目に遭いますよ、政治や国の言うなりになると、こういう目に遭いますよ、という警告を発しているのではないかと思います。
今、日本は戦争も辞さない勢いで国が動かされているように見えます。そして戦争は、起こそうとする人間たちには命の保証があるもので、むしけらのように死んでいくのは皆、一般市民です。人間が人間を殺す。そんな戦争を決して美化してはいけない、と、この映画を観て思いを新たにしました。

このところ、イスラムによるテロに限らず、狂気による暴力が世界中で日常化しつつあります。
そのことに、もっと意識を向けるべきです。のほほんと生きているわけには、もう行かない世界なのです。

パリでは、メトロに乗っていても、何となく皆の警戒心のような、ピリピリしたものを感じます。
それに乗じたいたずらも、メトロ構内では頻発していまです。こんな世界に誰がした?と呟いてみたところで、人々は皆、日常生活を営んでいかなくてはなりません。せめて、一体何が問題なのか、どうしたら良い世界になれるのか、常に問題意識をもって日々送りたいものです。自分のことだけ、自分に関わることだけ考えていれば良い世界ではない、ということを肝に銘じたいと思っています。

Parc des Buttes-Chaumont ビュット・ショーモン公園