2014年6月14日土曜日

信仰、その他の事柄についての考察


このたびあることがあって、ものすごい衝撃を受けていました。
その衝撃を自分の中に収めるのに、ものすごく苦しみました。
でも時間が経ってみると、「起こるべくして起こった」ということが、よく分かります。

まず私が書いておきたいと思ったのは、
私が子供(厳密にいうと小学校に上がった時から)の教育というのが、全く、実際の世の中では当てはまらない、ということです。結婚して、パリに住むようになる前までは、つまり日本にいる間はそれが当てはまっていたのですが、というか、私の身近な周辺には、少なくともそれを覆すようなことはなかった、ということですが、ここ、パリという世界中から様々な人種が集まってきている大都市では全く当てはまらない。
どういうことかというと、「年配の人を敬いなさい」という教育方針の1つです。儒教の教えでもありますね。ところが、それに当てはまらないと言いますか、少なくとも私自身が尊敬できない、と思う人が少なからずいます。(そういう人たちは、そもそも私のブログを見ないので書ける訳ですが)
「年長の人を敬いなさい」というのは、年齢を重ねていくうちに、人は仏に近くなるのだから、という意味だと思うのですが、だてに年しかとっていない人が多すぎる。そういう人たちを見るにつけ、「あぁ、人は年をとるから賢くなるのではないのだな」ということを悟る訳です。年若でも、尊敬に値する人というのはいくらでもいる訳ですから。むしろ、年をとることによって自我がむき出しになって、余計醜い、ということだと思います。

ところで思い出したというのは、母が死んだ直後のことです。
母が死んだことで、それまで免れていた父との対面をせざるを得なかった。つまり、父の言動が私を苦しめ始めた訳です。
それで私はどうしたか。フェミニズムに走ったのです。
はい、当然の成り行きですね。
父親を代表とする、世の男どもの横暴に耐えている女性として、自分を位置づけたわけです。


そもそも、この世の中を動かしているのは、何と言っても女ではなく男です。歴史を見ても明らかですし、現代の女性の同等の権利、社会的進出をもってしても、事態は何も変わっていない。この世界は、男の暴力によって成り立っていると言っても過言ではありません。

ここで今更ながらに女性を弁護することは書きませんが、ジェンダー的に見ても、女性の方が不利だし、弱い存在なんです。

最も性質が悪い男というのは、自分がこれまでにしてきたひどい事柄を全く自覚していない男でしょう。1人身を通したのならまだ許せる。でも家族をもった以上、男はその家族の全責任を負っています。女ももちろん責任がありますが、相手の男によって、人生がひどいことになるというのは、女性1人では到底、解決できません。男の方が、社会的にも肉体的にも強い立場にいる訳ですから。
それを自覚していない男は本当に性質が悪い。
たとえその人が何らかの回心をして、信仰の道に入ったとしても、根本のところで、「家族を苦しめた」という自覚、さらには(私はこれを一番望んでいるのですが)、一番苦しめた対象である子供たちに対し、「謝らない」というのが許せない。そんな人の信仰なんか、信じられません。

私が思うに、回心、というのは、神に目を向けることだと理解していますが、でも、実生活において、身近にいる人に対し、この深い気持ち、謝罪の気持ちがないのは、それは嘘の回心だと思います。回心というのは、周りの人を含めて幸せにすることでしょう。現に、私は夫の回心によって救われたと思っています。しかし、相手が自分の子供だろうが、1個の人格として扱わない、心からの後悔、はっきりと「すまなかった」という言葉を言えない親は、ものすごい業が深いと思います。

男はもっと、女性を大切にするべきです。それはもちろん、自分の娘(血のつながっている)に対しても例外ではありません。娘にはっきりと、「口頭で」(心の中ではなく)謝るべきです。


念のため書きますが、私の夫は、本当に人として心の優しい人です。それまでの私の人生で出会ってきた男ども(もちろん、まともな人も沢山いましたが)をすべて清算してくれるほどの人です。そういう意味では、夫のご両親に感謝しなくてはならないでしょう。何といっても生みの親ですから。
でも、「そうならざるを得なかった」、つまり、ああいう親をもったから人格者にならざるを得なかった、というのが一方であるので、そのことを思うと、可哀そうでなりません。
もちろん、社会的な圧力もあります。そうでなくては生き残れない、フランス社会というものに対してもものすごく批判の気持ちがあります。つまりものすごい欺瞞がある訳ですから。
夫には、もっと肩の力を抜いた生き方をさせてあげたいです。


ところで話を戻しますが、私の実の父は、生涯に一度だけでしたが、手紙で謝ってくれました。
私はその時の感動を胸に今、生きています。
実は、そんなたった一度の謝りの言葉で、それまでの憎しみや恨みが消えてなくなる、なんてことはあり得ませんが、少なくとも「謝ってくれた」ということは、(昔の男親として)すごいことだと思う訳です。

本当に、人間の罪、という時に、聖書は特に女性の罪を書いている場面が多いですが、とんでもないと思っています。男の罪の方がよっぽど重い。女の堕落は、男の存在によってなされるのですし、男によって、女は自分の人生が完全に左右されるのですから。

言葉によらなくても生き様から判断して欲しいというのは到底甘い。
言葉にしてこそ、気持ちというのは実在している、と言えるのです。
そもそも、謝っていないということが、そもそもその人の生き様になっていると判断できます。
何度も書きますが、そういう人が信仰の道に入ったとしても、私は信じません。頭のおかしい人の信仰は、それは「盲信」とか「狂信」といいます。

そもそも、現代社会にあって、「まとも」な人が、信仰を必要とするでしょうか。
以前、パリでこういう話になった時に、(フランスの教会離れ、宗教離れは著しいものがあります)あるフランス人がこういったのが印象的です。

「今の世の中、信仰は果たして必要だろうか?倫理、あるいは道徳があれば充分じゃないのか?」

まさに言いえて妙です。
さらに言えば、この倫理、道徳、つまりもっと砕いて言えば、人を人として尊重するということですが、教会内において、これに全く反する言動をする人たちというのを、私は目のあたりにしてきました。このことは、フランスの教会においてのみならず、日本の教会でもごく日常に見られることです。

もっと言えば、この現代にあって、信仰を必要とせざるを得なかった、ということ自体が悲惨を意味していると思います。もちろん、この世は悲惨です。ですから信仰というのは、全ての人に、本来は必要なものだと思います。しかし実際は、その信仰の中身を問いただしたくなる、という人がほとんどです。

最後に、「貴方はなぜ、信仰の道を選んだのですか?」という問いを投げかけたいと思います。










 

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