2015年12月19日土曜日

もうすぐクリスマス ~苦しみを超えて~


ご無沙汰している間に時はどんどん流れ、早、クリスマスもまじかとなりました。
正直、ようやく、クリスマスを祝う気持ちに添えるようになってきた、という感じがしています。

人間、生きる上での辛さは、いつ何時でも消えてなくなることはないと思います。
人と会えば、その辛さを出さず、表面だけでも明るく楽しく振舞うのが世の常、ということだと。
そんな風に思い、その思いに寄り添うことができれば連帯が生まれるし、真の希望に向かって歩むこともできるようになるのでしょう。

人の世は、死と向かい合わせ。
自分もいつか必ず死ぬし、自分の苦手な人だってそう。
そう思えば、ゆるせないことも、ゆるせるようになるかもしれない。。 甘い考えでしょうか?
そうですね、
死んでもなお、ゆるせない、ということはあるかもしれません。
徹底的に苦しんできた人にとっては、自分を苦しめてきた人が死んでも尚、恨みが残る、ということは、大いにあり得ることです。
では一体、どうすればいいのか?
相手は天国か地獄かに行ってしまって、もうこの世にはいないのに苦しい、憎い、許せない、
この気持ちをどこにもって行けばいいのか?

ここまで読んだ方の中には、
「そんなにしつこい気持ち、持ったことがない」という方もおられるでしょう。
ある意味、すごく幸せな方です。
そういう方は、もう読む必要はありません。
でもそう思いつつも、ふとした時に怒りが顔を出す、ということ、ないでしょうか。
つまり、深層心理、いわば、無意識のレベルで、許せていないんですよ。
口ではもう、関係ない、忘れた、と言っておきながら、
実は許せていない、というのが、大抵の人のパターンのような気がいたします。

ではどうすればいいのか?
色々なやり方、たとえば、同じ苦しみをもつ仲間をつくろう、とか、
その苦しみを分かち合って、もっと苦しんでいる人の役に立とうとか、
自分の打ち込める趣味に、とことんのめりこんでみるとか、あると思います。

でもそれでも、何としてもダメ、という場合。

私はキリスト教徒ですので、やはり、信仰をもつ、ということをお勧めします。
この世の罪をすべて背負って十字架上で死んでいったキリストを信じることです。

決して勧誘をしている訳ではありませんが、
クリスマスに当たり、そんなキリストがこの世に誕生した意味を考える、
キリスト教徒ではない人でも、一年に一度ぐらいは、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

「キリストを信じる」ということは、
とりもなおさず、心からの回心をする、ということです。
決して道徳や倫理ではありません。

「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」という聖書の中の神のみ言葉は、
単なる道徳の標語ではありません。
「隣人」そして「敵」を愛せよ、と説くその言葉には、
血のにじむような努力、つまり回心が必要なのです。
生半可な気持ちでは、到底、到達できることではありません。


クリスマスを前に、こんな気持ちを伝えてみるのも悪くないと思い、
少し重たい内容になってしまいました。
お許しください。

どうぞ楽しいクリスマスをお過ごしください。
何としても、希望の星、キリストの誕生は、おめでたいことなのですから。









1 件のコメント:

  1. "Car un enfant nous est né,
    un fils nous a été donné.
    La souveraineté est sur ses épaules.
    On proclame son nom:
    «Merveilleux - Conseiller, Dieu - Fort,
    Père à jamais, Prince de la paix.» "
    (Isaïe 9,5)

    ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
    ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
    権威が彼の肩にある。
    その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
    イザヤ書 9章 5節

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