2014年1月19日日曜日

東京ミッドタウン


昨日は久しぶりに遠出をしました。
普段は地元のスカイツリー近辺や浅草、錦糸町といったところしか散歩をしないのですが、友達に誘われて、六本木にある東京ミッドタウンに行ってきました。昔は、六本木に行くのに、地下鉄の日比谷線しかなかったために、ちょっと時間がかかったのですが、今は大江戸線で両国から1本で行けます。電車に乗っている時間も、20分ちょっと。かなり近くなりました。
とはいえ六本木です。馴染みがあるとは言えない地区なので、やはり行くのにちょっと緊張しました。でも地下から歩いてこのミッドタウンに出て、ガレリアという地区から外に出たら気分は一転。都会らしい景色と、美しい自然との調和に、気持ちが明るくなりました。もともと、都会生まれの都会育ちなので、本物の自然が一番好きだし、感動するのですが、こうして、高層ビル群と自然がうまく調和したのを見るのも大好きです。散歩をしていて、いろんな言語が飛び交っているのも気に入りました。でも浅草もそうなのですが(笑)。なにせ環境が違います。

でもどうなんでしょうね。自分自身は下町の古い日本家屋に住んでいて思うのは、あまりにも西洋的というか、むしろ近代化された建物に住むというのは、どうなんだろう、と。もちろん、今や日本の生活様式は、完全に西洋化されているわけですが、10年、パリという大都会に住んだ経験から、日本に住むなら、自然に囲まれた日本家屋、あの懐かしい縁側があるような家に住みたいな、と思っています。(夫も同意見です) よく日本好きの外国人が好むような生活スタイルですね。京都にお住いの、ベネシアンさんの住まいは、本当に憧れです。

こうして、父の他界後、1人でこの家に暮らしていると、もっと突き詰めていうと、人間の幸せは、外的な環境に左右されないのではないかな、と思い始めました。父がいた頃は、「こんな家!」と、本当に嫌だったし、建て替えてほしかったけれど、今、父がいなくなってみると、とても居心地が良くなりました。そんなことを書くと父には申し訳ないけれど、父がいなくなったことで、初めて味わえる自由に、心底、環境じゃない、心の問題だ、と思いました。もちろん、父がいなくなった、ということそのものが環境の変化なのですが、こんな家とおもっていたのが、生まれ育った家に住んでいる幸せを感じられるようになりました。考えてみれば、ここには、先祖代々、100年以上ここに生きているのです。
どんなにぼろ家(!)でも、住んでいる人間にとって、そこが自分の本当の居場所になってさえいれば、関係ない、と思っています。少なくとも雨風はしのげるわけですから。贅沢って、ホント、キリがないですからね。。

因みに写真は、家のすぐ近所の小料理屋です。亡父が、生前、よく懇意にしていたお店です。
今更、の写真ですが、なんとなく。まだ1月ですしね。

 

 

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