2014年2月13日木曜日

考えたこと - 村上春樹の「独立器官」を読んで


気が付けばもう、2月も半ばになろうとしている。
この間の豪雪の影響は、もう東京の街にはそれほど残ってはいないが、また今週末にかけて雪がちらつくとか。まだまだ寒い冬である。

今日、何年かぶりで年上の友人たちと会ってランチをし、おしゃべりを楽しんできた。年配の人らしく、話題は病気のことや、親兄弟が痴呆になった経験などが多く勉強になった。しかし帰宅してからドッと疲れが出て、いつもいる1階の居間で横になることにした。
そうすると、嫌でも目に入るのが、障子の桟にかけてある、父と母の遺影だった。「あぁ、本当に二人とも死んじゃったんだなぁ」としみじみ思った。母が他界したのは、かれこれ30年近く経つので遠い昔だが、父のことも何だか遠いことのように思える。2人共が元気だった、自分の子供の頃のことが、まるで嘘か幻想のようにも思えてくる。

思えば、2人共が生きていた子供の頃は、本当に幸せだったなぁと思う。思春期には、それなりに友達との関係で悩んだ時期もあったが、とにかく母が愛してくれていたので大事にはならなかった。本当にわたしは愛されて育ったし、幸せな子供時代だったとつくづく思う。「校内暴力」とか、「家庭内暴力」という言葉が使われ始めていた時代ではあったが、あの70年代から80年代にかけての日本は、高度経済成長ということもあって、何か、前向きな、楽しい雰囲気があったように思う。昨今のように、家族崩壊が普通に見られるような時代ではなかった。

話は変わるが、「文芸春秋」の最新号を買った。もちろん目当ては、150回目の芥川賞受賞作ではなく、村上春樹の短編、第四弾を読むためだ。
告白すると(というほど大げさなものではないが)、私は村上春樹の大ファンである。日本で好きな作家をあげろと言われたら、彼がダントツ筆頭だ。誰が何と言おうが、彼は文章家として天才だし、彼が日本の文壇とやらに衝撃を与え、大変革を迫ったことに間違いはない。

内容を言うと面白くなくなるので触れないが、題名は「独立器官」という。これを題名にもってきたところがまたすごいのだが、それはともかく。読み終わって、わたしは深く考えた。大体、小説を読み終えた後は、その世界から受けたもろもろの感情を、つらつらと頭の中で反芻する。特に彼の小説には、そうさせる魅力があるのだ。
少し書くと、主人公が、「一体自分は何者なのか?」と、人生で初めて、正真正銘の愛を知った後に問い続ける。わたしは、この疑問は、常日頃から持ち続けている自分にとっての命題の1だ。「自分は一体何者なのか?」あるいはもっと言えば、「何のために生きているのか?」ということ。

あまり長くなると読者に負担を与えるのでもう切り上げるが、それらのことと同時に、大切な人を失った悲しみというのを、どう癒していけばいいのか、ということがある。それは、まさに来月であの痛ましい災害から3年が経とうとしている、福島を始めとする、あの津波や地震で近しい人を亡くした人たちとの結びつきを感じさせる。
この間テレビで、そうした人たちの悲しんでいる様子が、改めて特集されていたが、そうした深い悲しみを表現すること、他の人と外で分かち合うことが、何かすごい圧力でできなくなっているという言葉があった。そんなことを口にすると、復興の妨げになるから、と。わたしはそれを聞いて、強い憤りを感じた。大切な人を失った悲しみでさえ、充分に表現されることが許されないのか、と。

深い共感からくる人との繋がり。それこそが、人を立ち直らせる原動力になるのではないだろか?


長いのに、読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

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