秋の夜長に小豆を炊いて、お萩をつくってみました。
と書きたいところですが、実際につくったのは先日の何の予定もなかった午前中でした。
早朝ではなかったですが、朝から小豆を煮るのも悪くありません。
午後から友人が来るのでつくったのですが、実はお萩は初挑戦。小豆はよく煮て、これまでも白玉をつくって入れて善哉にしたり、お餅を焼いてそれに乗っけて食べたりしてきましたが、お萩は初めてつくりました。
私は、両親、祖父母ともに東京出身の江戸っ子で、父方は、私の生まれ育った家に、代々暮らしているので、1923年の東京大震災も、1945年3月10日の東京大空襲も経験しています。
墨田区の本所という土地で、「本所・深川」というと、よく時代劇に登場する土地でもあります。
まだ少し先ですが、年末によくテレビで放映される、あだ討ちの地、吉良邸も両国の近くにありますし、葛飾北斎も、そこで生まれました。
そんな土地柄に生まれた私は、小学生になると、JR の両国駅から、ランドセルをしょって、遠くにある学校に通ったものです。そんな遠い昔からすると、両国駅周辺もかなり様変わりしました。あんまり言いたくないですが、もうかれこれ40年は昔ですから、変わるのも当然ですよね。
それから橋向こうになりますが、蔵前、浅草にも近い土地柄です。
浅草は言わずもがな、ですが、蔵前は昨今、清澄白川に次ぐ、下町のおしゃれなエリアとなっています。なぜそうなったのかは地元民としても未だ不思議なのですが、蔵前は浅草橋にも近いので、手づくりの可愛い雑貨店も多く、歩いていても楽しいです。
さて、なぜこんな事をつらつら書いているのかというと、母方は、文京区の本郷出身で、父とは違って山の手、そこから母が下町の父の元へと嫁いできたことが、このお萩に繋がるのです。
母は、山の手出身とはいえ、昭和8年生まれの6人兄弟の次女、長女の伯母が、医者に嫁いだのと違って、全く気取りのない女性でした。父は紙職人です。
鉢植えも、道を挟んだ向かいの八百屋さんからもらってきた発泡スチロールを使うような、大らかなタイプでした。
そんな母のつくるお萩は、いわゆる牡丹餅風でとにかく大きい。そんな母を思い出して今回つくったのが、上の写真にあるような、巨大な(?)お萩なのです。
気取りが全くなく、笑うのが好きで大勢の友人に恵まれた母は、満52歳で亡くなりました。
実は今日が、母の誕生日なのです。
死んだ人は、亡くなった日が記念日となりますが、やはり誕生日も忘れがたいですね。
以前日本は体育の日が10月10日と決まっていましたから、その翌日、ということで覚えやすかったこともあります。
小豆をじっくり時間をかけて煮て、砂糖を入れてからは豆が黒光りしてつやつやするまで煮込んでいる母の姿を、うっすら思い出します。
そして沢山つくったお萩を、近所に配っていました。もう、亡くなってから、32年の月日が流れています。そうした下町のあり方は、まだ今も残っています。 一時帰国のたびに、近所に挨拶して回る楽しみがあります。
まだ書ききれないことが多くありますが、今はこの辺で。
震災祈念堂の菊祭り-数年前の一時帰国の際 |
0 件のコメント:
コメントを投稿