2017年6月6日火曜日

一つの山を越して  Surmonter la crise


5月末に訪れた、バガテル庭園での孔雀です。

今朝のパリは気温は低め(14度)、青空は見えるものの、強い風が雲を押し流しています。

連日の猛暑で、心身疲労が激しく、とくに神経過敏なところのある私は、ほとんど拷問に近いものを感じていました。拷問、というとちょっと大げさに聞こえますが、パリの晴れ上がった空から注がれる日差しは、明らかに日本のものより強く、私には堪えるのです。ご存知のように、パリでは湿気がほとんどなく、太陽光線は肌に突き刺さるようで、ほとんど「痛い」と感じるぐらいなのです。
日本だと女性は、どんなに暑くても日差しを避けるという名目で、UVカットの長袖や、顔を隠すようなもの(サンバイザーや帽子、首の日焼けを防ぐショールなど)を身につけていても大丈夫ですが、こちらでそれをやったら、完全にridicule (滑稽)になってしまいます。
とはいえ、日焼けだけではなく、日射病が恐い私は、麦わら帽子をかぶって外出していましたが、まぁアジア人女性だからという感じで変な目で見られることはありませんでした。それでもここ2~3日は、体調を崩していたのです。

こちらもバガテル庭園の孔雀です。羽を広げるとこんな感じになります。

首の部分の青さが際立っていました。




今日になって、グッと気温が下がったお蔭で、大分元気を取り戻しました。気温によってこんなにも影響を受けることを、改めて感じています。

それにしてもバガテル庭園の孔雀はとても美しかったです。
園内のあちらこちらにいて、人間にもすっかり慣れていて、その独特の鳴き声を響かせていました。


尾が長く美しいのがオスです。


 5月の末にバガテル庭園を訪れた際に、「バラよりもアイリスと芍薬の方が満開」とお伝えしたように、ちょっと遅れましたが芍薬の満開の様子を載せます。

バラと違って、匂いを嗅ぐことをしませんでしたが、「匂うように咲く」とはこのことだと思わせるほど、太陽の光を一身に受けて、見事に咲き誇っていました。



 「薔薇か牡丹か芍薬か」、といったところですが、華やかな花というのは、やはり魅力がありますね。
芍薬と牡丹の違いは、葉を見れば一目瞭然なんだそうです。それと、芍薬と名前の似ている石楠花(シャクナゲ)は、草と木の違い、ということで、これもまた違いが分かるということですが、実家ではこの三つのうちの、牡丹だけを栽培していたのを思い出します。
小さい頃、満開の牡丹の横に座ってよく写真を撮らされましたっけ。

因みに、牡丹は中国の国花だそうです。



 表題の話題に戻りますが、
人生は、誰にとっても旅路ですから、歩いていれば(小走り、あるいは走っていても)、山あり谷ありですね。

二年前の夏に心臓発作で倒れた兄(上の)が、ようやく全快を認められて再就職先の病院が決まりました。こんなに嬉しいことはありません。

ただし、痛んだ心臓が修復された訳ではないので油断はできませんが。


こんな、目の覚めるような白色もありました。
コンパニオンプランツのジギタリスも美しく映えて。


 生きていて辛い経験は一杯ありますが、亡父の言っていたように、「苦労は、し甲斐のあるように」という事でしょうか。しかし、「困難を乗り越える」とか、「苦労のし甲斐があるように」という概念は、キリスト教的ではない様に思われます。困難、と一口に言っても、乗り越えられるような困難とは違う次元での困難というのが、この世には付き物だからでしょう。その困難を引き受けるしかない、という状況もあると思います。これは諦める、というのと違って、キリスト教徒としては、十字架上のキリストに倣って生きる、ということになると思います。そしてこの世は忍耐の学校である、ということも付け加えたいと思います、僭越ですが。。

今日も一日、良い日となりますように。


















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