昨日はイースターということで、キリスト教徒としてはまず、
ご復活おめでとう、と言わなくてはならないでしょう。
福島市内にある、カトリック野田町教会のミサに、兄と与ってきました。
久しぶりのミサということで、内心少し緊張していましたが、
信者さんたちの温かい出迎えで、すっかりリラックスできました。
神父はドミニコ会のトマス神父様でしたが、
奇しくもその日が野田町教会において最後のお努めということでした。
その説教で、
キリストがご復活されて、50日後の聖霊降臨までの間、弟子たちの間に次々と現れになった。
気の弱い弟子たちが、その間いかにして変貌をとげ、聖霊降臨によって宣教活動ができるようになっていく歩みを、私たちも共に歩みましょう、というものでした。
確かに、キリストを簡単に裏切るような、腰抜けの弟子たちが、
キリストのご復活によって、いかに勇気づけられたかが、その不思議ともいえる変わりようは、理性的には説明がつくものではないでしょう。
信仰というのはお恵みである、というのは、
つまり、どうしても信じずにはいられない体験というものが必要なのかもしれません。
現代人の、理論武装した頭で固くなっていては、
そこから一歩も出られないでしょう。
そしてまた、この世の論理というものに、
疑問を持つこと。
効率性、有効性だけを考えて突き進んできた社会、国が、
結果どうなっているかを見れば明らかでしょう。
心を病んでいる人々が、無視できないほど多くなっている現状です。
そうした現状に適応できている人の方が、
私なんかに言わせればおかしい、と思います。
「何かを切り捨てなければ、このあさましい現実に適応できるものではない」と実感します。
その「何か」というものが、
実は最も人間にとって大切なものなのではないか、と思います。
この世の現実に苦しんで、飢え乾いた経験が必要なのでしょう。
主のご復活に際し、
改めて自分の信仰のあり方を考えたいと思います。
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