先日、パリの日本人カトリックセンターにおいて上映された、遠藤周作の「沈黙」という映画について、感想などを述べたいと思います。但し、私自身がキリスト教徒であること、そして長年にわたり(たかだか10年ちょっとだとしても)フランスという、今やカッコつきとなっているとはいえ、典礼暦で社会が動いているカトリック国の一つに住んでいることを、まず前提としてお伝えしておきます。そしてこの作品は、非常に重要な多くの問題提起を抱えていますので、ちょっとやそっとでは論じられない、一つか二つのテーマに絞らないことには収拾がつかないと思われますし、一つか二つにテーマを絞ること、それとて容易ではないし、すべての問題提起が底では一つに繋がっている訳ですから非常に奥深いものとならなくてはなりません。そんな事が自分にできるのか?いやできない、しかし自分の生きている土台としてのキリスト教に関わることで、何一つとっても自分で納得できないのは辛い、という思いで、ほんの一部でも感想を述べてみたいと思います。
一緒に観た友人の一人も言っていたのですが、原作に劣らず、遠藤周作が小説として表現したものが実によく映像化されていたと思います。私は小説を先に読んでいましたので、その表現のリアルさに、かなり読みきるのに苦労したのを覚えています。そのずっと後で映画を観たわけですが、文章では想像の域を超えなかったものが映像化されたことでまた違った衝撃を受けました。
しかしそれよりも私が自分自身で驚いたのが、自分が既に宣教師の側の人間だという発見でした。もちろん、17世紀の日本が舞台とはいえ、同じ日本人が演じているということで、しかも日本の名優ぞろい、立派に演じきっているところは誇らしくも思いました。しかしその中でも自分はどっち側の人間なのか?ということはとても重要で、堂々と、ある意味小気味良いとも言える代官側の人間ではない、という自覚は必要だと思いました。もちろん、キリスト教徒なのですから、迫害されたキリシタンたちと同じ立場なのですが、ともすると、むしろ残虐に迫害する側、つまり権力者側の気持ちも日本人として分かってしまうため、そこら辺の識別に苦労するのです。
しかし一歩引いて考えると、なぜ、自分は権力者でもないのに、当時生きていたならむしろヒエラルキーとしては従属する階級に属しているはずなのに、この隷属する百姓を一個の人間として扱わない側の代官の言動に、何か共感してしまうのは何故なのか? 映画の上では百姓の命は、本当にむしけら同然です。このことは、決して例外的な扱いではなかっただろう、ということは、他の史実を見ても明らかです。過去の大戦でも、数え切れないほどの命がむしけら同然に、しかも無駄死に追いやられたことで証明されています。
権力者は、国を守るため、という大義名分がありますが、実際には国民の命を非常に軽く見ているという事実は、これはもういかんともし難いものがあります。それなのにその国民の多くは権力者におもねる言動をとるし、それに賛同しない者に対しては圧力を加える。この構造は、あの戦争をあそこまで長引かせた一要因として外せないことですし、そんな人間性をもつ日本人は、過去と同様、今もって何一つ変わっていないと思います。
少し話題がそれました。
そんな、国民(当時その多くはお百姓さんでした)の命をいとも軽く扱っていた権力者たちにとって、キリスト教が脅威になるのは当然でした。今でいう「人権」というものを、当時では人間の尊厳という概念があったからです。そして絶対的な真理があった。もちろん今でもあります。映画の中で、ロドリゴ神父の「どこの国にあっても、真実は真実である。日本においてそれが真実ではないなら、それ自身、真実とは言えない。」というセリフがありますが、日本に住む多くの日本人にとって、この言葉はピンと来ないかもしれません。なぜなら日本人は、絶対的な真理などは存在しないし、そんなものは求めていないからです。求めなくても、少なくとも表面上は平和に生きていかれるからなのです。それは、昔からよく言われているように、日本が島国で単一性の高い民族だからなのです。だからその同一性から外れる者をのけ者にするのは当たり前であって、いじめ問題の根はそこにあります。言ってみれば「何が悪いの?」、つまりキリシタンを迫害して「何が悪いの?」ということです。
よく仏教でもキリスト教でも、突き詰めれば同じところに行き着く、という見方がありますが、もちろん私もそれには同意します。しかしならば何故迫害しなくてはならなかったのか?それはもはや宗教的な問題ではなく、政治と結びついていたというのは周知のことでしょう。日本という国を超えて、もっと大きな存在があるという、日本にはないイデオロギーを危険視したのです。そんな宗教を放っておいたら国の統一が図れなくなります。事実、キリスト教に改宗した者たちによって、当時、お寺や神社が破壊された、という歴史があります。
しかし転んだフェレイラがロドリゴ と再会した場面で言った、「日本人が信じている神と我々の信じている神は違う神なのだ。お前の前で殉教していった日本人は、お前のために死んだのだ。」というセリフがあります。この発言は、非常に大きな問題でして、軽く言い逃れることはできません。遠藤周作氏に限らず、現代においても日本人としてキリスト教をどう信じるのか?否、信じることができるのか?という根本的な問いがあります。氏と同様、この問いを一生のテーマとしている日本人の神父たちも少なからずいます。
日本人は、果たしてすべてを超越した神なる存在を、信じることができるのでしょうか?
非常に大きなテーマですので、多くの賛否両論を超えて、私なりの答えを簡略化して書きたいと思います。
私の場合は、キリスト教を信じる夫に出会った、というのが最も大きくて素直な答えだと思います。19才で最愛の母に死なれてから、父や兄二人がいたとはいえ、大きな苦しみの中でもがき続けていた私は、後年、夫を紹介されて出会ってから、心の平安を得ることができました。
ですから「超越した神なる存在を信じることができるのか?」その問いに対する私なりの答えは、「超越した神と出会い、信じている人々ー神父やシスターに限らず一般信徒でもーと、誠の出会いをしたならば信じられる。」ということでしょうか。
映画の中のお百姓さんたちのように、キリスト教との出会いによる貧しさや苦しみからの救いだけでなく、そうした超越した神を信じている人との出会い、ロドリゴ神父とガルペ神父との「真の出会い」によって、殉教として身を投じるまで至った、と思いました。
私は本当に苦しんでいる人々、真面目に、真摯に自分の苦しみに向き合っている人々、そして真の救いを求めている人々に共感します。そして真の救いというのは、日本的な相対主義では「絶対に」救われない、という救いであることを、強く主張したいと思います。