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La Place de la Nation |
ここは家の近くのナシオン広場です。
この広場は、20区と11区、12区にまたがっており、パリ東部にあるバスティーユ広場やレピュブリック広場に準じる大きな広場となっています。写真に写っている大通りは、シャンゼリゼに匹敵する道幅があるので、かなり広々としています。
なぜこの写真、しかも夜が明けた後の広場を写したかというと、この写真の大通りを先に行くと、パリの環状線に出て、そこから空港への道に繋がっているからなのです。もうすぐ日本に一時帰国する身なので載せてみました。以前、まだパリでの生活を始めた頃は特に、この通りを見る度に、「向こうには日本がある」と思い、いつも郷愁にふけっていました。
もう写真は夜明け、というより、明けてから30分ぐらいは経過している様子です。
ところでこの夜明けという言葉から、私は島崎藤村の「夜明け前」を思い起こします。
夫の恩師の一人で、ある共同体をつくっていた人に初めて夫から紹介された時に、「貴方は島崎藤村を読みなさい。そしてその小説を読むだけじゃなく、書き写しなさい。」と言われました。「新生」、「破戒」と読み進める内に、なぜ恩師が私に藤村を読むように勧めたのかがよく分かりました。つまり、誰と連帯をするのか、という事が問題となっていたからです。
この連帯 ( la solidarité) という言葉は、日本では滅多に使わない単語ですが、ここパリではよく使われています。特にデモ (la manifestation) をする時に使います。フランスでは、政府や権力機関に対し、本当によく連帯し、デモをします。デモは日常の一つの風景と言っても過言ではありません。
「誰と連帯するのか?」という事は、つまり日常の課題であって、フランス人の生き様、人生そのものだと言えると思います。さすが革命を起こした国といえますが、翻って日本はというと、「お上に立てつくのは」という感覚が非常に強く、市民レベルでの連帯がとても難しい国民性と言えるでしょう。ここパリでも、日本人同士の間では、利害関係が絡むと、連帯よりも損得勘定が優先し、仲間だと思っていた人たちが、後ろを向いたら誰もいなかった、という事態が往々にして起こります。
では自分は一体誰と連帯をするのか?もちろん、旗印はキリスト教ですが、私の場合は特に、女性との連帯を考えています。あるフェミニストの女性にそれを言った時に、「でもフェミニストの一番の敵は女性でもあるのよ」と笑っていました。たとえそうだとしても、フェミニズムに連帯しない訳にはいきません。
随分前に、日本でも公開された、ジュリエット・ビノシュ主演の「トリコロール」三部作、「青の愛」という映画がありますが、そこにおける主人公のあり方にとても共感したのを覚えています。ストーリーは敢えて紹介しませんが、近隣の人々から虐げられていたストリッパーの女性に、主人公が心を寄せる場面があります。世の中一般の人の反応として、そうした類の女性たちを蔑視する傾向がありますが、私自身はその、ストリッパーや娼婦と言われる女性たちに共感している人間として身を寄せたいと思っています。
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La Fontaine de la Place St.Michel |
私は幼稚園から大学まで女子校のミッションスクールに、12年間通いましたし、そこでの教育のモットーは、「清く正しく美しく」でした。性教育も受けた覚えがありません。当時は何の疑問もなくその事に順応して育ちましたが、社会に出てから、とても苦労をしたのを覚えています。つまり、自分だけ清く正しく美しく育ったとしても、それは何の役にも立たないし、誰の心も捉えないのですね。
後年、同じように教育された女性達が、様々な理由で、AVビデオへの出演やそういう業界に入ってしまう例を、新宿の歌舞伎町で宣教している神父から聞いたことがあります。社会から断絶された様な形で教育を受けても(当時はもちろん、ネットなどというものはありませんでしたし)、現実は違う、もっと醜く、悲惨であるという事を知らなかったが故に、社会の落とし穴に落ちてしまった、という事です。もちろん、今や時代が変わって、自らそういう身に自分を投入している女性達も多いと聞いています。だとしても、女性の肉体は、精神と強く結びついていますから、そういう意味でも女性は自分自身を大切にしなくてはならないのです。
しかしよくあるパターンとして、良い年をしているのに、自分は清く生きてきた、馬鹿なことを一切しないで理性的に生きてきた、と公言している女性がいますが、私はそういう人はどうでも良いと思っています。それが本当ならご立派なことですが、わざわざ口に出して言うのはどうかと思うのです。特に教会に来ているような人に多く見られますが、では、キリストは誰のために来たのでしょうか?正しくご立派な人のためではありません。娼婦や病人、そして徴税人など、この世で虐げられ、差別されている人を救うために来られたのです。決して正しい人のために来たのではありません。ここに、キリスト教というのが道徳だけではない、という事を確認しなくてはなりません。。清く正しく美しく生きていると自分のことを思っている人など放っておけという事です。そう生きたくても生きられない人々のためにキリスト教はあるのです。
もちろん、道徳だけではないとはいえ、キリスト教徒として清く正しく美しく生きようと努めることは大切です。ただし、自分だけが清ければいい、自分さえ良ければ他人はどうでもいい、という事ではありませんし、本当に自分の悲惨を知っているのなら、謙虚に生きざるを得ないし、そもそも世の悪を全く知らないで清く正しく美しく生きても、全く意味がないと思います。なぜなら、そういう人たちは、他人の不幸や悲惨に対し、非常に手厳しいからなのです。自分に経験があるなしに関わらず、ある年齢以上になったら、全てを知った上での態度というものを身につけたいですね。それはとりもなおさず女性としての成熟であるし、人間としての度量が問われていると思います。良い年をしてぶりっ子をしていられるのは、日本でだけと考えて間違いないでしょう。
そしてそもそも、自分は正しい、間違っていない、という人は、往々にして権力者側の意見に組しているものです。そして自分自身の悲惨に気づいていない。人間というのは、誰でもが悲惨を抱えて生きているものです。その悲惨を見据えて生きている人、生きざるを得ない人々との連帯。これこそがキリスト教であり、私のモットーとするフェミニズムでもあります。何と言ってもこの世は男の権力志向によって形作られているのですから。もちろん、この世が男性の理論で支配されているとはいえ、男性の中にも犠牲者は沢山いると思います。そういう人たちとの連帯も、一方では考えておく必要はあるのでしょう。
男でも女でも、私はキリスト教徒ですが、そうした信仰がなくても、自分の悲惨、つまり人間としての惨めさに自覚的である事は、人間として大切な要素だと考えます。
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L'Église de St.Sulpice |
雨が降って気温が緩んでいるパリですが、まだまだ冬の寒さです。空もどんよりとしている事が多く、気持ちも晴れませんが、もうすぐ日本だと思うとはやる気持ちもあります。
二番目の兄からは「また帰るのか」と呆れられていますが、仕方ありません、日本の年度末として、海外在住でもこなさなくてはならない役所関係の用事があるのです。
親しい友人たちや恩師と会えたら、と願っています。楽しみです。